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センス論

世の中で、あまりセンスとはどのようなものかって議論を見かけないような気がするので 私の考えるセンスについてまとめてみました。

センスをどうやって磨くかという話は誰にとっても興味のある話なので割とよく聞く話ですが、論じる機会は後に譲りたいと思います。 ここでは、センスがない人、ずれている人がどうやって生きて行けば良いかという話をします。

まずセンスとは何か

センスとは辞書を紐解くと、感覚とか感性と言った説明がされています。それらを大きく一般的なセンスと特別なセンスの二種類に分けます。センスという言葉は、大まかに能力といった意味に近い文脈で用いられることが多いです。ちなみに、そういった場合のセンスとは、事象の定石から外れ、かつ事象に関係する別の法則に接続する能力であると考えます。センスをまともに言語化して説明した文章を見たことがないのでBoldで書きました。
以下では、特定のセンスが一般的なセンスと比較した場合の立ち位置について説明していきます。

一般的なセンスと特別なセンス

一般的なセンス

一般的なセンスというものは定義ができません。定義ができないからこそ存在できる言葉というものもあるのです。大体、世の中のマジョリティーが持つ感覚として捉えて良いでしょう。 一般的なセンスが筋道立てて考えたときに、合っているか間違っているかということは問題にしません。

特別なセンス

特別なセンスは一般的なセンス以外のセンスであり、役に立つもの(一般的なセンスと比較して特定の目的に対し優位に働くもの) とそうで無いものがあります。 特別な役に立つセンスとはおよそ以下の二つに大別されると思っています。

  • 特定の目的に対する学習能力の高さ
  • 特定の目的で特に少数派に分類される感覚

前者はおよそ身体的な特徴や環境に由来するものであると考えられます。 陸上であれば、生まれつき速筋、遅筋の量の多寡であったり、モデルであれば、背が高い、恵まれた美貌を持っていたりすれば有利でしょう。 学者家族に生まれたり、金銭的余裕があったりすると、勉強面では他とは大きなアドバンテージがあり、環境面も大きく関わってきます。こういったセンスの話ですと、比較的反発なく受け入れられる話だと思います。普通の人が生活していく上で、拠り所にしている部分といえるでしょう。
後者は少数の人しか持っていない感覚であるため共有化されておらず、形式化されていない(できない)能力であるため、説明する事ができません。 輝くスターの原石を見つけ出すような、バイの人でないとわからないような能力であったり、 盤面の広がりを何万通りも瞬時に描くような、生涯かけて自分だけのパターンを作りあげた場合があります。 そもそもの自分の武器について明文化する人はあまりいないからです。 こういう能力を持っていると、まさに強力な差別化要因となるでしょう。

特別な役に立たないセンス

センスのある人というのは、これまでの説明からしても、良くも悪くも一般とかけ離れた感覚をしています。 マジョリティーとずれているという感覚は、なかなかに生きづらさを感じることがあるでしょう。 例えば、女子校で流行りのアイドルの流れに入れなかったり、 音楽の話をしていても自分が興味があるのは洋楽だったりして集団の輪に入れないというのは、よくあるはみだしっ子の類型です。世の中にあるもののほとんどのものは一般の人に開かれたものなので、 センスがズレている人は、一般的なリソースにアクセスする機会を得にくいということになります。 それでも、今は普通の感覚とはズレていても、将来的に役に立つ能力に昇華されたりという話もあるので、 自分のセンスがどれだけの価値を持っているかは何とも言えない話です。 ゴッホなんかも生前は認められていなかったし、お笑い芸人が鬱屈した青春時代を過ごしたというのはよくある話です。

センスがズレている人がどうやって生きて行けばいいか

もともとセンスがあった人がズレてきた場合

センスを武器にしている人のうち、自分のセンスを形式化できていない人は危険です。形式化できないセンスは他者に対する強力な差別化要因になる一方で、自分の能力の源がどこにあるのか自分でもよくわかっていないので、仮にそのセンスが時流に左右されるようなものであった場合、流行りが過ぎると飽きられてきたり、修正を効かせることが難しいということです。 具体的にどれとは言いませんが、マンガや音楽や芸人なんかで一発屋が多いのはこういう理由だからと思います。 おそらく若い人が書いているであろうマンガなんかを読んでいると、自分の経験した土台や、自分の感覚が強すぎて、修正が難しいのだろうなと思うことが良くあります。 よほど高いセンスを持っていない限り、こうした問題はセンスで戦う人のほとんどが向き合う問題であると思います。

センスが枯れた人は、自分のセンスを形式化して対象化しないと客観的に観察し、修正を効かせることができませんが、形式化とは言語能力なので、言語能力が乏しい人であった場合は難しいでしょう。なぜ飽きられてきたのかわからない人はどうすればいいかというと、センスが枯れるまでに技術を培う必要があります。 技術とは、集団の中で共有している形式知と言っていいでしょう。技術がある事でセンスの寿命を延ばしたり、センスがあるように見せかけたりすることができます。 しかしこれは、言い換えれば 集団の中で平均的な仕事をすることしか保証しません。 集団の中で突出したいと思うのであれば、やはり、新しいセンスを得なければいけないことになります。

まだ世に出ていない、センスあるかどうかわからない場合

くすぶっているという感覚を持っていたり、まだ世に出ていない人が慰めとするものは まさに自分のセンスそのものになりますが、それは論法が循環するので、ここでは論じません。 もともと一般のセンスとズレている自分のセンスを世の中に擦り合わせていくには、 そもそもの感覚がズレていることが根本なので、 根本から物事を捉え直す必要があります。そのために哲学や思想が必要なのです。 哲学者はどうでもいいことを問題にしているとよく言われますが、そもそも大多数の人に生得的に備わっている感覚を 一から捉え直さないと何が起こっているのかすら把握できないために、側から見たら問題を殊更ややこしくしているような理解の仕方をしなければならなかったのでしょう。何事も問題を理解しようとするには一度当事者から離れ、客観的に見る必要があります。 高名な哲学者であるウィトゲンシュタインやクリプキなど、哲学者には社会的な逸脱者が多かったと言われますが、そもそも自分が世間と大きく外れている感覚を持っていたために、起こっている事象を客観的に観察することができたのだと思います。特定の分野に対して、正しい考え方を説明している資料を探すことは大変ですが、そこは根気です。私の場合ですと、例えば日本にあるモテ論みたいなのは言っていることが散発的で、どれもこれも何を主張の軸としているのかさっぱりわからず大変困りました。ある程度、色々な主張を付き合わせて確かそうなものを見つける作業が必要になると思います。

まとめ

まとめると、

  • センスが戦う武器になっている場合
    センスに寄り添いながら、センスがずれた時の備えとしての技術を獲得する。
  • センスがずれてきた場合
    技術で延命する
  • センスが戦う武器になっていない場合
    哲学(考え方)が必要

ということになるでしょう。
しかし、ここでは単能としてのセンスしか論じておらず、大抵の人はセンスを組み合わせて武器としていると思います。そういった意味でも、私はセンスよりも戦略の方が重要であると考えています。
戦略についての議論は世にたくさんあるのでここでは特に挙げなかったですが、戦略的な観点では、弱点であってもカードの一つとして切ることができるので、特に弱点を戦略としてどう活かすかという話も、能力という意味でのセンスの話も併せていつかできたらいいな。というところで一度締めたいと思います。